宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている[12]。
爵の世襲(華族令第9条)
家範[13]の制定(華族令第8条)
叙位[14](叙位条例、華族叙位内則)
爵服の着用許可(宮内省達)
世襲財産の設定(華族世襲財産法)
貴族院の構成(大日本帝国憲法・貴族院令)
特権審議(貴族院令第8条)
貴族院令改正の審議(貴族院令第13条)
皇族・王公族との通婚(旧皇室典範・皇室親族令)
皇族服喪の対象(皇室服喪令)
学習院への入学(華族就学規則)
宮中席次の保有(宮中席次令・皇室儀制令)
旧堂上華族保護資金(旧堂上華族保護資金令)
財産 [編集]
1886年に華族は第3者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来る華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって大正5年(1915年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。また、財産基盤が貧弱であった堂上貴族は旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。また、さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には男爵華族恵恤金が交付された。
教育 [編集]
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学出来、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の定員は帝国大学のそれと大差なかったため、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
貴族院議員 [編集]
1889年の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。
また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。
皇族・王公族との関係 [編集]
同年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者[15]に限定された。
また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。
華族の身分 [編集]
華族のうち爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された。しかし女戸主は明治40年の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。
なお、華族とされる者は家督を有する者及び同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻等により分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、妾はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。
華族の統制 [編集]
華族は宮内大臣と宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。
華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められ、また一族の私生活に不祥事が有れば宮内省から処分を受けた。
華族制度への批判 [編集]
華族制度は成立当初、一君万民の概念に背き、天皇と臣民の間を隔てる存在であり、華族は無為徒食の徒であるとして華族制度の存在に反対するものもいた。島地黙雷や小野梓元老員書記官が反対の論陣を張り、朝野新聞紙上で激しい論戦が繰り広げられた。朝野新聞は明治13年(1880年)に「華族廃すべし」と題した論説を掲載している。また政府内でも井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。
また板垣退助も華族制度は四民平等に反するという主張を持っており、明治20年(1887年)に伯爵に叙された際も2度にわたって辞退した。しかし天皇の意志に背くことは出来ずに爵位を受けたが、この時には華族制度を疑問視する意見書を提出している。 また、明治40年(1907年)には全華族に対して華族の世襲を禁止するという意見書を配り、谷干城と激しい論争になった。死の直後には「華族一代論」を出版し、襲爵手続きも行わなかったため、板垣伯爵家は廃絶した。
華族の実態 [編集]
皇室の藩屏として期待された華族であったが、奈良華族や中下級公家などの経済基盤が貧弱であった華族は生活に困窮した。しかし一方で華族としての体面を保つためには出費が必要であった。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家も現れた。清水徳川家や北小路家がその例である。一方大大名の子孫である諸侯華族は裕福であり、旧家臣との人脈も財産を守る上で役立った。しかし明治末期以降は伝来の家宝が売却されることも多くなり、諸侯華族の財政も悪化しつつあった。また、華族の銀行と呼ばれた十五銀行が1927年(昭和2)4月21日に破綻した際には多くの華族が財産を失った。
また、華族は現在の芸能人的な扱いもされており、「婦女画報」等の雑誌には華族子女・夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮や大山巌の令嬢信子の離婚問題など、多くの華族スキャンダルが新聞や雑誌を賑わせた。
革新華族 [編集]
昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族も増加した。この華族達は革新華族と呼ばれ、昭和前期の政界における一潮流となった。近衛文麿・有馬頼寧・木戸幸一・徳川義親などがその代表である。
華族制度の廃止 [編集]
1947年5月3日、貴族制度の禁止(憲法14条2項)と法の下の平等(憲法14条1項)を定めた日本国憲法の施行とともに廃止された。当初の草案の段階では、現存する華族一代の間はその栄爵を認めるという形であったが、衆議院で即時廃止の方針が決まった(芦田修正)。憲法は貴族院でも審議されたが、華族制度については衆議院で可決された原案通りに通過している。なお、小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は1011家である。
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